hakuam120のブログ

日々のこととか、体験談とか。書こうと思った時に書いてます。不安障害、双極性障害II型。

じいじ

先日、祖父が亡くなった。

物心ついた頃には既に両親は離婚しており、母は私を養うために看護師として夜勤もしながら働いていたため、私は母の実家、祖父母のもとに預けられることがほとんどだった。祖父母はいつもとても良くしてくれて、美味しいご飯を食べさせてくれて、一緒にお風呂に入ってくれて、寝かしつけてくれた。だから私はいわゆる「おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子」になっていった。

特に祖父は、父親のいない私を娘同然に可愛がってくれた。一緒に畑に行って祖父が畑仕事をしているのを見ながら遊んだり、家でトランプなんかして遊んだり、夏には家の前にビニールプールを出してくれてそこで遊んだり。夜寝るときは祖父と祖母の間に布団を敷いて、祖父はいつも楽しいお話をしてくれた。自転車に乗る練習に付き合ってくれたのも祖父だった。そして車で遠くまで連れて行ってくれた。私は車の一番後ろの席に横になってうとうとしたり、サービスエリアをぶらついたり、そういうことができるのもあって祖父の車に乗ってどこかに旅行に行くのが大好きだった。高校時代は毎日送り迎えをしてくれたし、大学に入ってからも帰省の時に迎えに来てくれたり、畑で採れた野菜をたくさん送ってくれたりした。

祖父はとても頑張り屋で、人に尽くすこと、何かしてあげることが大好きだった。その姿勢は仕事にも表れていたようで、会社の展示会に遊びに行くと、お客さんに熱心に商品の説明をしている祖父の姿があった。営業部長として働いていた時には業務功労賞を受賞して、東京で行われた表彰式に出席していた。社長にもとても信頼されていたようで、退職の数年前には常務取締役という職を任され、退職してからも非常勤の取締役として月に何度か会社に行っていた。そこまで登り詰めたのも、祖父の頑張りがあってこそだと思う。

会社ではお偉いさんだった祖父も家に帰ってくれば普通のおじいちゃん。天然ボケを発揮して家族にやんややんやと言われながら笑っていた。お酒が何よりも大好きで、毎日ちょっとしたものをつまみにしながらうまいうまいとお酒を飲んでいた。食べるのも大好きで、特にお刺身やトンカツ、アジフライなんかが好きだった。白いご飯ももりもり食べて、祖父のご飯茶碗は家族のそれより一回りくらい大きかった。甘いものも好きで、アイスや近所のパン屋さんで売っている豆パンを好んで食べていた。家族の誕生日にはケーキを囲み、ハッピーバースデーの歌を歌い、みんなでケーキを食べた。祖父はいつも誰よりも楽しそうに歌い、ケーキを美味しそうに食べていた。怒ると怖かったが、家にいるときはほとんど穏やかににこにこと笑っていて、鼻歌を口ずさんだり、いろんな話をしてくれたりと楽しい人だった。

そんな祖父だが、2016年の健康診断で膵臓のあたりに腫瘍があると言われ大学病院で精密検査を受けた。診断は膵臓がん。「沈黙の臓器」と言われる膵臓のがんは、自覚症状が出る頃には既にがんが進行している場合が多く、5年生存率がかなり低いがんである。しかし祖父の場合は早期発見ができたため、手術でがんを取り除くことができた。手術の後にお見舞いに行ったが、少し痩せたくらいでとても元気そうで安心した。退院してからも、変わったことといえば食前にインスリン注射をするくらいで、普段と変わらない生活を送り続けることができた。これで元気になったと私は思っていたし、本人も家族もそう思っていたであろう。

あと1年ほどで手術から5年が経とうとしていた2020年の冬。祖父は体調不良を訴え、手術を受けた大学病院を受診した。入院、検査を経て、膵臓がんが再発したことがわかった。今度のがんは、他の臓器に転移こそしていないが、手術で取り除くには難しい場所にできており、抗がん剤でかなりがんを小さくして手術ができるかできないか、というものだった。祖父は抗がん剤治療をすることを選んだ。抗がん剤はがんと一緒に健康な細胞も攻撃するため、副作用はとても多かった。貧血や手足の痺れ、浮腫、味覚の異常、発熱、便秘や下痢、様々な副作用を抑えるために薬も沢山飲んでいた。それでも大好きなお酒を飲み、沢山ご飯を食べ、畑仕事にも精を出していた。副作用で髪が抜けてしまったが、その代わり帽子姿がとてもよく似合うようになっており、お気に入りの中折れ帽を被った姿はとても病気と闘う人とは思えないほどダンディでかっこよかった。抗がん剤での治療はきっと私にはわからないほど辛かっただろう。しんどそうな顔を見ることもあった。でも外ではそんな素振りは全く見せずに、笑顔で振る舞っていた。そして抗がん剤をやめると言ったことは一度もなかった。必ずこのがんを克服すると、強い気持ちで治療に励んでいた。

しかし、現実はそう簡単ではなかった。2022年の秋頃、がんが肺に転移していることがわかった。抗がん剤の効き目も少しずつ弱くなり、がんも大きくなりはじめていた。肺の方も最初はあまり気にしなくて良いと言われていたが、進行が思っていたよりも早く、胸水が溜まりはじめていた。2023年の始め、胆管に入れたステントの交換と胸水を抜くために入院した。しかし、祖父は胸水を抜かずに退院してきた。理由を聞くと、病院内を散歩していたときに主治医の先生に偶然会い、元気そうだから今のうちに家に帰って家族とゆっくり過ごしたらどうかと提案されたそうだ。この時点で先生は、祖父がもう長くないことをわかっていたのだと思う。これは憶測に過ぎないが、祖父もそれを聞かされていたのかもしれない。

退院してきてからは、横になっている時間が増えた。それからしばらくして、リビングに介護用ベッドと酸素吸入の機器が運ばれてきた。祖父は食事の時間以外はほとんどそのベッドで過ごすようになった。その辺りから日を追うごとに祖父の調子はガタガタと崩れていった。最初はトイレに行くのも1人で歩いて行っていたのが、誰かの肩につかまらないと行けなくなり、ついに後ろからも支えがないと行けなくなった。食事もだんだん取れなくなり、大好きなご飯もおかずもほんの一口しか食べられなくなった。食べられても戻してしまうことも多かったので、それもあって食べるのが嫌になってきたようだった。痰が絡み、上手く出せずに苦しそうな顔ばかりするようになってしまった。それでも、家に訪問看護師さんや往診の先生、お客さんが来ると元気に話していた。

1月の終わりのある日、祖父が眠ってから家族で話していると、祖母や母は「もうじいじは長くないからね、覚悟してね」と私に言った。受け入れられるはずがなかった。弱っていく祖父を見ていると、頭ではそのことを受け入れなければならないことはわかっていたが、ついこの間まで元気に笑って過ごしていた祖父が、辛い抗がん剤治療を乗り越えてきた強い祖父が、ずっと私のことを可愛がってくれた優しくて大好きなじいじがいなくなることを考えるだけで苦しくて仕方なかった。 そして、自分が祖父のために何もしてあげられないことが辛かった。祖母は祖父と高校の時からの付き合いで、人生のほとんどを連れ添って生きてきた。祖父のことは祖母が一番よくわかっているので、祖父も祖母を頼りにしていた。お風呂もトイレもいつも付き添いをしていたのは祖母だった。母は看護師で、祖父の苦痛を和らげるための方法をよくわかっていた。訪問診療の先生とも偶然以前から関わりがあり、何かあったときはすぐ連絡を取ってくれた。それなのに私は、祖父の手を握って痛いところをさすってあげることくらいしかできなかった。そして自分自身がうつの治療をしている最中でもあったため、気分の落ち込みが激しく、取り乱したように泣いてしまうことがあった。それが祖父を心配させるとわかっていたので、祖父のいないところで何度も泣いた。自分のことと、祖父のことで心がぐちゃぐちゃになっていた。祖父を支えるどころか、心配させてしまっていたかもしれない。それでもなるべく祖父の前で取り乱さないように、自分のできることをやるしかなかった。

2023年2月10日。この日は祖父の74歳の誕生日だった。母のいとこの一人が家族と一緒に遊びに来てくれて、コストコの大きなフルーツタルトにろうそくを立てて、みんなでお祝いをした。祖父はタルトに乗っていた桃を一切れだけしか食べることができなかったが、その日はみんなに祝われて嬉しそうだった。それが最後の誕生日だった。

それから1週間ほどで祖父の体調はまたガタガタと崩れていった。ベッドから起き上がることはほとんどできなくなった。痛みを訴えることも格段に増え、痛み止めの薬の量も増えていった。状態が急激に悪くなったことを知り、東京に住む叔母が当初の予定を早めて帰省した。 その2日後、朝から祖父はみんなを集めて話をした。一人一人の手を握り、ありがとう、ありがとうと順番にみんなと話した。涙を堪えることはできなかった。みんなそうだった。その日は近くに住む親戚に片っ端から電話をかけ、来られる人はみんな来てくれるようにとお願いした。久しぶりに会う親戚も、忙しい中たくさん来てくれて祖父を囲み、一人一人と握手をかわし、話をしていた。その日我が家は久しぶりに賑やかになり、積もる話をいろいろとして、とても良い日だった。

親戚の一人からはスパークリングワインを頂いた。祖父はもう自力で飲み物を飲むことができなかったが、なんとか一口飲ませてあげようと、口を湿らせるスポンジにワインを含ませ、祖父にあげた。すると、その日一番の笑顔で「酒はうまい!」と言ってくれた。昔はよく、「じいじお酒飲みすぎ!」と言って注意していたが、そのときはその言葉が嬉しくてたまらなかった。それが祖父の笑顔を見た最後の日だった。

その次の日からは祖父の意識はほとんどなく、起きたと思ったら痛みに苦しみ、そうでないときは薬でずっと眠っていた。つきっきりで様子を見るために、祖父のベッドがある座敷とふすまで仕切られている隣の部屋に必ず誰かがついていた。母は仕事を休み、祖母もほとんどそこで様子を見ていた。お風呂などでどうしてもそこを離れないといけないときは私や叔母がそこにいて、血圧を測ったり血中酸素を測ったり、異変がないかを見るために誰かがずっとそばにいた。 話しかけてもほとんど何も答えてくれない祖父。答えられなくて当然だろう。ずっと苦しそうな呼吸をしていた。あんなに笑顔ばかりだった祖父の顔が痛さや苦しさでゆがみ、見ているのも辛かった。そんな日がしばらく続いた。みんなが来てくれた日の往診で今日が山だと言われていたが、意外にも祖父は持ち堪えていて、様子を見る家族にも疲れの色が見え始めていた。

しかし、その2,3日後の夜、急に血圧と血中酸素が下がり始めた。顎を上げて息をする下顎呼吸が始まり、祖父はより一層苦しそうに息をしていた。眠ろうかどうか迷ったが、叔母が「何かあったら呼びに行くから」と言ってくれたため、その日は眠ることにした。

その日の深夜2時。なんとなく目が覚めた途端に叔母が私の部屋にやってきた。「じいじ、もうだめだ。」急いで祖父の元へ向かった。祖母と母がそばにいた。眠る前よりもさらに呼吸は弱くなっていて、ほとんど息ができていないような状態だった。それでもしばらくは弱々しい呼吸を、だんだんと間隔を空けながら続けていた。母は脈を取っていた。まだ脈は弱いながらもあったようだ。そんな状態が続くことおよそ30分後、なんとか続いていた祖父の呼吸が途絶えた。あ、とみんなが声を漏らした。2023年2月22日午前2時28分。祖父は静かに旅立った。私がドラマや映画で観てきたように、急にぱたりと呼吸が止まるのではなく、ゆっくり、その間隔がだんだんと広がって、ゆっくり消えてなくなるような、そんな最期だった。その後、往診の先生と訪問看護師の方に連絡をし、先生による死亡確認が取れた。午前2時49分のことだった。享年74歳。人生100年時代と言われる世の中、少しばかり早すぎる死だった。

その後は訪問看護師さんがエンゼルケアをしてくださった。私もしばらくその様子を見ていたが、眠たくなってきてしまい、自室のベッドに戻った。実感は全く湧かなかった。

次の日の朝、起きるとたくさんの人が集まっていた。私たちが住む小さな田舎町では、町内の誰かが亡くなると無線放送がかかるのだが、その放送が流れる前から噂を聞きすでに大勢の町内の方々が集まっていた。皆驚きと悲しみに包まれていた。祖父は今年に入ってから急激に調子が悪くなり、そこから旅立ちまでがあっという間だった。そういう事情もあり、ついこの間まで元気にしていたのに急にどうして…と皆が口を揃えた。祖父は町内会のことも積極的にやっていたものだから、近所の人もみな祖父を慕っていた。また、祖父よりも歳上の方も多かったため、なぜこんなに早く逝ってしまったのかと、皆が祖父の手を握り涙を流していた。祖父と仲の良かった近所のおじさんは、「お前と一緒に飲もうと思って良い酒買うといたのに」と涙ながらに金のラベルがついた日本酒を供えてくれた。そのお酒は祖父のもとに届いただろうか。祖父はドライアイスで冷やされて、その手や額は氷のように冷たかった。それでもその表情は穏やかで、本当に眠っているようだった。声をかければ起き出しそうなほどに。エンゼルケアでいろいろとしてもらったのもあるだろうが、苦悶に満ちて歪んだ顔がふっくらと戻り、皺を寄せていた顔はつるりときれいだった。

祖父を弔いに来てくださる人が絶えない中、私は日課である夕方の犬の散歩に出かけた。帰り道、いつも祖父母と仲良くしてくれている方とすれ違い、その方が車の中から声をかけてくれた。「おじいちゃん具合どう?いつも美味しいって食べてくれる茄子のからし漬けを持ってきたんだけど食べられそうかな?」その方は祖父の死を知らないようだった。私は胸が詰まりそうだった。ぐっと涙をこらえて、祖父が今日亡くなったことを告げた。その方の表情は一瞬固まり、くしゃりと歪んだ。「よかったら顔を見に来てあげてください。」それが私が言える精一杯の言葉だった。少し間をおいて、水色の車が家の前に向かっていった。この出来事がその日一番つらかったかもしれない。改めて祖父が亡くなったと言葉にすることで、その事実が胸にずっしりと重くのしかかるようだった。

翌日、通夜が行われた。出棺の瞬間はなんとなく実感が湧かなかった。家の戸締まりを任されたのでしっかりしなくちゃとそれだけで精一杯だった。式場に着くと沢山の親族が控室に集まっていた。久しぶりに見た顔ばかりだったが、こんな形で再び会うのはなんだか複雑だった。母や祖母は通夜に来てくださった方の対応に追われていて、自分は手持ち無沙汰に控室とホールを行ったり来たりしていた。

そうこうしているうちに、私を探している人がいるよと親族から言われた。誰かと思ったら同じ町内に住む小学校からの友人だった。あまりにも急なことで驚いていたし、彼女も数年前におばあちゃんを亡くしているからか、私の話をうんうんと頷きながら聞いてくれた。彼女には祖父が亡くなる前に食事に誘ってもらっていたのだが、自分の状態と祖父のことが心配なのもあって断ってしまった。今度は自分から誘ってみようと思った。

通夜が始まった。お経は正直聞いているだけで眠くなるほどだった。だが、祖父を見送りに来てくださっている方にだらしないところは見せられないと気を張って、終始足を綺麗に揃え、背筋を伸ばして前を見ていた。大人としては当たり前なことだと思うけれど、しっかりした孫だと思われたかったのだろう。

通夜の後、葬儀社の方とお話をした。事前に祖父が刺身とビールが好きだったと言うお話をしたら、なんと鰤の刺身と瓶ビールを用意してくれていたのだ。じいじ、いただきます!乾杯!と祖父に話しかけてからそれぞれ刺身とビールを楽しんだ。こんな心遣いがあるだなんて。その感謝を伝えつつ、祖父のことをたくさん話した。あれも話したい、これも話したい、と次々に話題が出てきて止まらなかった。そんな夜だった。

翌朝。葬儀のために朝早く起き、式場へ向かう。昨日と同じく、遺族としてしっかりしなくてはと心の糸をピンと張っていた。葬儀が終わり、火葬場へ向かう前に棺に花をたくさん入れた。祖父の顔のそばに花を供えた時、ピンと張った糸がぷつりと切れた。涙が止まらなかった。嗚咽に近い声だった。みんな泣いていた。静かにハンカチで目元を押さえる人、大声をあげて泣く人。祖父がその人たちに与えてきた優しさが涙や声となって溢れてきているようだった。花を全て供え終わった後、葬儀社の方があるものを持ってきた。祖父が大好きだった、近所のパン屋さんの豆パンだった。家族みんな崩れ落ちそうだった。わざわざ隣の市の小さなパン屋さんに朝早くから向かってパンを買ってきてくれたと思うと、この人はどうしてここまでしてくれるのだろうと、感謝でいっぱいになった。それがお仕事と言ってしまえばそこまでだけれど、亡くなった方と遺族にここまで寄り添えるなんて、とても素晴らしいお仕事だと思った。向こうでたくさん食べてね、と豆パンを供え、棺は閉じられた。祖父は祖母と母と一緒に霊柩車に乗り、火葬場へと向かった。

私は叔母の旦那さんの運転で火葬場へと向かった。斎場に着くと、霊柩車とバスはすでに着いていて、皆は部屋の真ん中にいる祖父を囲んでいた。この時の焼香が本当に最後のお別れだった。涙を堪えて一言、ありがとうと言って祖父の頬に触れた。祖父は火葬炉に運ばれていった。扉が閉まる瞬間、心臓に鉛のような重いものがどろどろと流れてくるようだった。本当にあの優しい顔をもう見られないのか。

待合室では親族一同が集まり、お弁当を食べ、談笑していた。とても穏やかな時間が流れていた。大きな窓からは海が見えた。曇天だったが、波は穏やかだった。あんまり晴れない冬の北陸らしい海景色だと思って眺めていた。そうしているうちに、火葬が終わったという放送があった。

穏やかな顔で眠っていた祖父は本当に骨だけの姿になってしまっていた。これが祖父の骨か。あまり実感は湧かなかった。小さな骨壷に骨を納め、式場で最後の法要を終えてから家に戻った。祖父も、とても小さくなってしまった姿だったが、家に帰ってこられた。これで一連の葬儀が全て終わった。

それからしばらくは、香典を頂いた方々の名簿の整理や役所関係の手続き、携帯電話やカードの解約などの手続きなどに追われて悲しむ余裕はなかった。祖父は何枚もクレジットカードを持っていたので、それを把握するだけでも大変だった。死亡した人の代理で行う準確定申告は電子申告ができないことがわかり、計算だけをPCに任せ、手書きで確定申告を書いた。全てを祖父に任せていたため、何もわからないなりに調べて調べてようやく確定申告の書類を出した時は肩の荷がどさどさと音を立てるようにして落ちた気がした。悲しむ余裕は本当になかった。

いや、嘘だ。祖父の好きだったものを見て祖父を思い出し、黒い額に入って笑顔のままの祖父の前で泣き、どこにいるの、どうして何も喋ってくれないの、と大声で泣いた。その度に祖母や母に宥められて、ということを何度か繰り返した。ぽっかりと空いた穴は祖父の形をしていて、他の何かでは埋められなかった。むしろ祖父がふらりと戻ってくる気さえしていて、埋めようともしていなかったのかもしれない。

そして、今。祖父が亡くなって100日が経った。もうそんなに時間が経ってしまったのか、というのが正直なところだ。人間は亡くなってから100日まではあちらの世界には行けず、この世をふらふらしていて、100日経つとあちらに行ける、と言う話を聞いた。だから祖父は今はもう本当にこの世にはいない。祖父の形の穴が埋まったわけではないが、その穴をわざわざ塞ごうとしなくても悲しみに暮れることはなくなってきた。ここに来てようやく祖父と本当のお別れができた気がする。

こんなにも身近な人を亡くすのは初めてだった。いつかは来る別れだとわかっていたが、どうしてそんなに急いでしまったのかとも思った。ただ、人に尽くし人を思いやり、優しく強い祖父はあの世にも必要とされていたのだろう。あの世で誰かのために頑張っているのかもしれない。そして、必ず私たち家族を見守ってくれている。祖父が亡くなる前、家族みんなと交わした約束だから。家族が笑っているのを一番幸せ そうに見ていた祖父だったから、きっと向こうでも同じように笑っていて見ていてくれていると思っている。

いつかは私も祖父と同じところに行く。みんなそうだ。その時に胸を張って生きたと、楽しんだと、頑張ったと、幸せだったと言えるように生きていきたいと思う。

じいじ、たくさんの愛をありがとう。またね!