hakuam120のブログ

日々のこととか、体験談とか。書こうと思った時に書いてます。不安障害、双極性障害II型。

桃源郷を越えて、彼女は

笠原桃奈。神奈川県出身、2003年10月22日生まれの20歳。モーニング娘。などを抱えるハロー!プロジェクトのグループ「アンジュルム」を2021年11月に卒業し、現在「PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS」というアイドルオーディション番組(通称:サバ番)に練習生として出演している。

彼女は2015年4月に研修生としてハロプロの一員となった。実力をメキメキと伸ばして行った彼女は、1年後の2016年に行われたハロプロ研修生実力診断テストでベストパフォーマンス賞を受賞し、同年にアンジュルムに加入することとなった。ヘルシーな大人っぽさとあどけなさを併せ持ち、そして確かな実力のあるメンバーだった。年齢を重ねるにつれ、より大人な雰囲気が増し、アンジュルムの中でも若いメンバーであったにも関わらず、その年齢らしからぬ雰囲気でグループにかっこよさと強さをもたらしていた。 しかし、ステージを降りると一変、やかましさと多少ぶっ飛んだ行動が面白い、年相応の女の子だ。北海道に行くのにパスポートが要ると思っていたり、キッズケータイしか持っていなかったのでダンスの練習動画を見られなかったりした加入直後のエピソードから、先輩と遊んでいたら勢い余って後ろの衝立を倒してしまったり、コンサート中に衣装の袖をちぎってしまったり、なぜかヒールを折ってしまったりという破天荒なエピソードもあり、そのパワフルなキャラクターは皆に愛されていた。

2021年、彼女は高校3年生の頃に卒業を発表した。 大抵のメンバーは20代前半、中には20代後半で卒業するメンバーもいる。そんな中、早すぎる卒業発表に予想外で驚いたファンも多いだろう。

ここで少し話は変わるが、私が笠原桃奈というアイドルに出会って、好きになるまでの話を少し。コロナ禍にハロプロに出会い、曲の良さとパフォーマンスの素晴らしさにどんどんハマっていった。そんな頃リリースされたアンジュルムの新曲「愛されルートA or B?」という楽曲でメインを張っている彼女に衝撃を受けた。ゆるくウェーブのかかった黒のロングヘア、眉上ぱっつんの前髪、黒のタイトなミニワンピースに高いピンヒール。そして首元にはチョーカー。MVでは最初はモノクロだからわからなかったが、全身黒の中そのチョーカー、そしてリップだけが赤く際立っていた。なんだこの雰囲気のある美人は、と。調べたところ、まだ高校3年生だという。美人顔で背も高く大人っぽくて、シンプルながら一般人ではなかなか着こなせない衣装を完全に自分のものにしている。そしてこれも一般人なら履いて歩くだけでも苦労するような高いピンヒールのパンプスを履いて当たり前のように踊っている。本当に素敵なアイドルに出会ってしまった、推すしかない…と思ったのだった。彼女が卒業を発表したのはそれからわずか数ヶ月のことだった。まだ若い彼女が卒業するという衝撃と、せっかく見つけた「笠原桃奈」というアイドルをほとんど応援できないまま卒業を見届けることが悔しくて悲しかった。

そうして2年の月日が経ち、韓国のサバ番「PRODUCE 101」の日本のガールズ版である「PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS」(以降、日プ女子)の開催が発表された。参加者は、NiziUを生んだ「Nizi Project」、Kep1erを生んだ「Girls Planet 999」に参加し、惜しくも脱落してしまった練習生や元アイドルから、そういった経歴のない初心者まで様々だ。最初は「ふーん…」くらいにしか思っていなかった。韓国のサバ番は「PRODUCE 48」をなんとなく追っていた程度で、日プに至っては全く見たことがなかった。しかし、その参加者の中の1人に、見覚えのある名前があった。笠原桃奈である。私があのとき見つけた、もっと早く見つけたかったと思った彼女が、再び表舞台に姿を現したのだった。

ハロプロアイドルということで、彼女の注目度はかなり高かった。ハロプロはスキル軍団、パフォーマンスの質が高いアイドルとして日本のアイドル界で知られている。それだけ期待値も高い一方で、なんで元ハロプロがわざわざ日プ女子に出るのか?どうせハロプロオタクの組織票狙いだろう、と参加にネガティブな意見を持つ人もいた。しかし、磨かれたスキルを如何なく発揮し、観る人を惹きつけるパフォーマンスに、次第に「彼女はすごい」と言う人が増えていった。 きっと卒業後もスキルと表現を磨き続けてきたのだろう。グループバトルやポジション評価では、少しだけだがアンジュルムにいた頃を知っている私も見たことがないほど、スキルの高さはもちろんコンセプトを完全に消化した抜群の表現力を魅せてくれた。番組を見るたびに、本気でこのオーディションに懸けていることが伝わってくる。

彼女の卒業コンサートのタイトルは、自身の名前にも使われている「桃」という漢字の入った「桃源郷」だ。桃源郷とは、俗界から離れた別世界、理想郷という意味を持つ。ユートピアとほぼ同義の意味と言っていいだろう。先輩後輩の垣根なく仲良く明るい、雰囲気のいいグループとして知られるアンジュルム。頼れる先輩がいて、可愛い後輩がいて、笠原桃奈にとってアンジュルムというグループはまさに桃源郷だったはずだ。おそらくそのままアンジュルムに属していれば、間違いなくグループの核となるメンバーになっていたと思う。しかし、彼女は居心地のよい理想郷を去り、更なる高みを目指して挑戦することを選んだ。その覚悟は相当なものだと思う。

私はハロプロが好きだが、元ハロプロメンバーだからという理由で彼女を応援しているわけではない。パフォーマンスに懸ける強いこだわり。明るく周囲を元気にするキャラクター。周囲を気にかけ思いやる優しい人柄。紡ぎ出される知性と強い意志が感じられる言葉の数々。笠原桃奈笠原桃奈であるからこそ、応援していてデビューしてほしいと願っている。彼女が桃源郷を越えた先にある景色が、より明るく輝いているものでありますように。

桃奈、絶対にデビューしよう!

じいじ

先日、祖父が亡くなった。

物心ついた頃には既に両親は離婚しており、母は私を養うために看護師として夜勤もしながら働いていたため、私は母の実家、祖父母のもとに預けられることがほとんどだった。祖父母はいつもとても良くしてくれて、美味しいご飯を食べさせてくれて、一緒にお風呂に入ってくれて、寝かしつけてくれた。だから私はいわゆる「おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子」になっていった。

特に祖父は、父親のいない私を娘同然に可愛がってくれた。一緒に畑に行って祖父が畑仕事をしているのを見ながら遊んだり、家でトランプなんかして遊んだり、夏には家の前にビニールプールを出してくれてそこで遊んだり。夜寝るときは祖父と祖母の間に布団を敷いて、祖父はいつも楽しいお話をしてくれた。自転車に乗る練習に付き合ってくれたのも祖父だった。そして車で遠くまで連れて行ってくれた。私は車の一番後ろの席に横になってうとうとしたり、サービスエリアをぶらついたり、そういうことができるのもあって祖父の車に乗ってどこかに旅行に行くのが大好きだった。高校時代は毎日送り迎えをしてくれたし、大学に入ってからも帰省の時に迎えに来てくれたり、畑で採れた野菜をたくさん送ってくれたりした。

祖父はとても頑張り屋で、人に尽くすこと、何かしてあげることが大好きだった。その姿勢は仕事にも表れていたようで、会社の展示会に遊びに行くと、お客さんに熱心に商品の説明をしている祖父の姿があった。営業部長として働いていた時には業務功労賞を受賞して、東京で行われた表彰式に出席していた。社長にもとても信頼されていたようで、退職の数年前には常務取締役という職を任され、退職してからも非常勤の取締役として月に何度か会社に行っていた。そこまで登り詰めたのも、祖父の頑張りがあってこそだと思う。

会社ではお偉いさんだった祖父も家に帰ってくれば普通のおじいちゃん。天然ボケを発揮して家族にやんややんやと言われながら笑っていた。お酒が何よりも大好きで、毎日ちょっとしたものをつまみにしながらうまいうまいとお酒を飲んでいた。食べるのも大好きで、特にお刺身やトンカツ、アジフライなんかが好きだった。白いご飯ももりもり食べて、祖父のご飯茶碗は家族のそれより一回りくらい大きかった。甘いものも好きで、アイスや近所のパン屋さんで売っている豆パンを好んで食べていた。家族の誕生日にはケーキを囲み、ハッピーバースデーの歌を歌い、みんなでケーキを食べた。祖父はいつも誰よりも楽しそうに歌い、ケーキを美味しそうに食べていた。怒ると怖かったが、家にいるときはほとんど穏やかににこにこと笑っていて、鼻歌を口ずさんだり、いろんな話をしてくれたりと楽しい人だった。

そんな祖父だが、2016年の健康診断で膵臓のあたりに腫瘍があると言われ大学病院で精密検査を受けた。診断は膵臓がん。「沈黙の臓器」と言われる膵臓のがんは、自覚症状が出る頃には既にがんが進行している場合が多く、5年生存率がかなり低いがんである。しかし祖父の場合は早期発見ができたため、手術でがんを取り除くことができた。手術の後にお見舞いに行ったが、少し痩せたくらいでとても元気そうで安心した。退院してからも、変わったことといえば食前にインスリン注射をするくらいで、普段と変わらない生活を送り続けることができた。これで元気になったと私は思っていたし、本人も家族もそう思っていたであろう。

あと1年ほどで手術から5年が経とうとしていた2020年の冬。祖父は体調不良を訴え、手術を受けた大学病院を受診した。入院、検査を経て、膵臓がんが再発したことがわかった。今度のがんは、他の臓器に転移こそしていないが、手術で取り除くには難しい場所にできており、抗がん剤でかなりがんを小さくして手術ができるかできないか、というものだった。祖父は抗がん剤治療をすることを選んだ。抗がん剤はがんと一緒に健康な細胞も攻撃するため、副作用はとても多かった。貧血や手足の痺れ、浮腫、味覚の異常、発熱、便秘や下痢、様々な副作用を抑えるために薬も沢山飲んでいた。それでも大好きなお酒を飲み、沢山ご飯を食べ、畑仕事にも精を出していた。副作用で髪が抜けてしまったが、その代わり帽子姿がとてもよく似合うようになっており、お気に入りの中折れ帽を被った姿はとても病気と闘う人とは思えないほどダンディでかっこよかった。抗がん剤での治療はきっと私にはわからないほど辛かっただろう。しんどそうな顔を見ることもあった。でも外ではそんな素振りは全く見せずに、笑顔で振る舞っていた。そして抗がん剤をやめると言ったことは一度もなかった。必ずこのがんを克服すると、強い気持ちで治療に励んでいた。

しかし、現実はそう簡単ではなかった。2022年の秋頃、がんが肺に転移していることがわかった。抗がん剤の効き目も少しずつ弱くなり、がんも大きくなりはじめていた。肺の方も最初はあまり気にしなくて良いと言われていたが、進行が思っていたよりも早く、胸水が溜まりはじめていた。2023年の始め、胆管に入れたステントの交換と胸水を抜くために入院した。しかし、祖父は胸水を抜かずに退院してきた。理由を聞くと、病院内を散歩していたときに主治医の先生に偶然会い、元気そうだから今のうちに家に帰って家族とゆっくり過ごしたらどうかと提案されたそうだ。この時点で先生は、祖父がもう長くないことをわかっていたのだと思う。これは憶測に過ぎないが、祖父もそれを聞かされていたのかもしれない。

退院してきてからは、横になっている時間が増えた。それからしばらくして、リビングに介護用ベッドと酸素吸入の機器が運ばれてきた。祖父は食事の時間以外はほとんどそのベッドで過ごすようになった。その辺りから日を追うごとに祖父の調子はガタガタと崩れていった。最初はトイレに行くのも1人で歩いて行っていたのが、誰かの肩につかまらないと行けなくなり、ついに後ろからも支えがないと行けなくなった。食事もだんだん取れなくなり、大好きなご飯もおかずもほんの一口しか食べられなくなった。食べられても戻してしまうことも多かったので、それもあって食べるのが嫌になってきたようだった。痰が絡み、上手く出せずに苦しそうな顔ばかりするようになってしまった。それでも、家に訪問看護師さんや往診の先生、お客さんが来ると元気に話していた。

1月の終わりのある日、祖父が眠ってから家族で話していると、祖母や母は「もうじいじは長くないからね、覚悟してね」と私に言った。受け入れられるはずがなかった。弱っていく祖父を見ていると、頭ではそのことを受け入れなければならないことはわかっていたが、ついこの間まで元気に笑って過ごしていた祖父が、辛い抗がん剤治療を乗り越えてきた強い祖父が、ずっと私のことを可愛がってくれた優しくて大好きなじいじがいなくなることを考えるだけで苦しくて仕方なかった。 そして、自分が祖父のために何もしてあげられないことが辛かった。祖母は祖父と高校の時からの付き合いで、人生のほとんどを連れ添って生きてきた。祖父のことは祖母が一番よくわかっているので、祖父も祖母を頼りにしていた。お風呂もトイレもいつも付き添いをしていたのは祖母だった。母は看護師で、祖父の苦痛を和らげるための方法をよくわかっていた。訪問診療の先生とも偶然以前から関わりがあり、何かあったときはすぐ連絡を取ってくれた。それなのに私は、祖父の手を握って痛いところをさすってあげることくらいしかできなかった。そして自分自身がうつの治療をしている最中でもあったため、気分の落ち込みが激しく、取り乱したように泣いてしまうことがあった。それが祖父を心配させるとわかっていたので、祖父のいないところで何度も泣いた。自分のことと、祖父のことで心がぐちゃぐちゃになっていた。祖父を支えるどころか、心配させてしまっていたかもしれない。それでもなるべく祖父の前で取り乱さないように、自分のできることをやるしかなかった。

2023年2月10日。この日は祖父の74歳の誕生日だった。母のいとこの一人が家族と一緒に遊びに来てくれて、コストコの大きなフルーツタルトにろうそくを立てて、みんなでお祝いをした。祖父はタルトに乗っていた桃を一切れだけしか食べることができなかったが、その日はみんなに祝われて嬉しそうだった。それが最後の誕生日だった。

それから1週間ほどで祖父の体調はまたガタガタと崩れていった。ベッドから起き上がることはほとんどできなくなった。痛みを訴えることも格段に増え、痛み止めの薬の量も増えていった。状態が急激に悪くなったことを知り、東京に住む叔母が当初の予定を早めて帰省した。 その2日後、朝から祖父はみんなを集めて話をした。一人一人の手を握り、ありがとう、ありがとうと順番にみんなと話した。涙を堪えることはできなかった。みんなそうだった。その日は近くに住む親戚に片っ端から電話をかけ、来られる人はみんな来てくれるようにとお願いした。久しぶりに会う親戚も、忙しい中たくさん来てくれて祖父を囲み、一人一人と握手をかわし、話をしていた。その日我が家は久しぶりに賑やかになり、積もる話をいろいろとして、とても良い日だった。

親戚の一人からはスパークリングワインを頂いた。祖父はもう自力で飲み物を飲むことができなかったが、なんとか一口飲ませてあげようと、口を湿らせるスポンジにワインを含ませ、祖父にあげた。すると、その日一番の笑顔で「酒はうまい!」と言ってくれた。昔はよく、「じいじお酒飲みすぎ!」と言って注意していたが、そのときはその言葉が嬉しくてたまらなかった。それが祖父の笑顔を見た最後の日だった。

その次の日からは祖父の意識はほとんどなく、起きたと思ったら痛みに苦しみ、そうでないときは薬でずっと眠っていた。つきっきりで様子を見るために、祖父のベッドがある座敷とふすまで仕切られている隣の部屋に必ず誰かがついていた。母は仕事を休み、祖母もほとんどそこで様子を見ていた。お風呂などでどうしてもそこを離れないといけないときは私や叔母がそこにいて、血圧を測ったり血中酸素を測ったり、異変がないかを見るために誰かがずっとそばにいた。 話しかけてもほとんど何も答えてくれない祖父。答えられなくて当然だろう。ずっと苦しそうな呼吸をしていた。あんなに笑顔ばかりだった祖父の顔が痛さや苦しさでゆがみ、見ているのも辛かった。そんな日がしばらく続いた。みんなが来てくれた日の往診で今日が山だと言われていたが、意外にも祖父は持ち堪えていて、様子を見る家族にも疲れの色が見え始めていた。

しかし、その2,3日後の夜、急に血圧と血中酸素が下がり始めた。顎を上げて息をする下顎呼吸が始まり、祖父はより一層苦しそうに息をしていた。眠ろうかどうか迷ったが、叔母が「何かあったら呼びに行くから」と言ってくれたため、その日は眠ることにした。

その日の深夜2時。なんとなく目が覚めた途端に叔母が私の部屋にやってきた。「じいじ、もうだめだ。」急いで祖父の元へ向かった。祖母と母がそばにいた。眠る前よりもさらに呼吸は弱くなっていて、ほとんど息ができていないような状態だった。それでもしばらくは弱々しい呼吸を、だんだんと間隔を空けながら続けていた。母は脈を取っていた。まだ脈は弱いながらもあったようだ。そんな状態が続くことおよそ30分後、なんとか続いていた祖父の呼吸が途絶えた。あ、とみんなが声を漏らした。2023年2月22日午前2時28分。祖父は静かに旅立った。私がドラマや映画で観てきたように、急にぱたりと呼吸が止まるのではなく、ゆっくり、その間隔がだんだんと広がって、ゆっくり消えてなくなるような、そんな最期だった。その後、往診の先生と訪問看護師の方に連絡をし、先生による死亡確認が取れた。午前2時49分のことだった。享年74歳。人生100年時代と言われる世の中、少しばかり早すぎる死だった。

その後は訪問看護師さんがエンゼルケアをしてくださった。私もしばらくその様子を見ていたが、眠たくなってきてしまい、自室のベッドに戻った。実感は全く湧かなかった。

次の日の朝、起きるとたくさんの人が集まっていた。私たちが住む小さな田舎町では、町内の誰かが亡くなると無線放送がかかるのだが、その放送が流れる前から噂を聞きすでに大勢の町内の方々が集まっていた。皆驚きと悲しみに包まれていた。祖父は今年に入ってから急激に調子が悪くなり、そこから旅立ちまでがあっという間だった。そういう事情もあり、ついこの間まで元気にしていたのに急にどうして…と皆が口を揃えた。祖父は町内会のことも積極的にやっていたものだから、近所の人もみな祖父を慕っていた。また、祖父よりも歳上の方も多かったため、なぜこんなに早く逝ってしまったのかと、皆が祖父の手を握り涙を流していた。祖父と仲の良かった近所のおじさんは、「お前と一緒に飲もうと思って良い酒買うといたのに」と涙ながらに金のラベルがついた日本酒を供えてくれた。そのお酒は祖父のもとに届いただろうか。祖父はドライアイスで冷やされて、その手や額は氷のように冷たかった。それでもその表情は穏やかで、本当に眠っているようだった。声をかければ起き出しそうなほどに。エンゼルケアでいろいろとしてもらったのもあるだろうが、苦悶に満ちて歪んだ顔がふっくらと戻り、皺を寄せていた顔はつるりときれいだった。

祖父を弔いに来てくださる人が絶えない中、私は日課である夕方の犬の散歩に出かけた。帰り道、いつも祖父母と仲良くしてくれている方とすれ違い、その方が車の中から声をかけてくれた。「おじいちゃん具合どう?いつも美味しいって食べてくれる茄子のからし漬けを持ってきたんだけど食べられそうかな?」その方は祖父の死を知らないようだった。私は胸が詰まりそうだった。ぐっと涙をこらえて、祖父が今日亡くなったことを告げた。その方の表情は一瞬固まり、くしゃりと歪んだ。「よかったら顔を見に来てあげてください。」それが私が言える精一杯の言葉だった。少し間をおいて、水色の車が家の前に向かっていった。この出来事がその日一番つらかったかもしれない。改めて祖父が亡くなったと言葉にすることで、その事実が胸にずっしりと重くのしかかるようだった。

翌日、通夜が行われた。出棺の瞬間はなんとなく実感が湧かなかった。家の戸締まりを任されたのでしっかりしなくちゃとそれだけで精一杯だった。式場に着くと沢山の親族が控室に集まっていた。久しぶりに見た顔ばかりだったが、こんな形で再び会うのはなんだか複雑だった。母や祖母は通夜に来てくださった方の対応に追われていて、自分は手持ち無沙汰に控室とホールを行ったり来たりしていた。

そうこうしているうちに、私を探している人がいるよと親族から言われた。誰かと思ったら同じ町内に住む小学校からの友人だった。あまりにも急なことで驚いていたし、彼女も数年前におばあちゃんを亡くしているからか、私の話をうんうんと頷きながら聞いてくれた。彼女には祖父が亡くなる前に食事に誘ってもらっていたのだが、自分の状態と祖父のことが心配なのもあって断ってしまった。今度は自分から誘ってみようと思った。

通夜が始まった。お経は正直聞いているだけで眠くなるほどだった。だが、祖父を見送りに来てくださっている方にだらしないところは見せられないと気を張って、終始足を綺麗に揃え、背筋を伸ばして前を見ていた。大人としては当たり前なことだと思うけれど、しっかりした孫だと思われたかったのだろう。

通夜の後、葬儀社の方とお話をした。事前に祖父が刺身とビールが好きだったと言うお話をしたら、なんと鰤の刺身と瓶ビールを用意してくれていたのだ。じいじ、いただきます!乾杯!と祖父に話しかけてからそれぞれ刺身とビールを楽しんだ。こんな心遣いがあるだなんて。その感謝を伝えつつ、祖父のことをたくさん話した。あれも話したい、これも話したい、と次々に話題が出てきて止まらなかった。そんな夜だった。

翌朝。葬儀のために朝早く起き、式場へ向かう。昨日と同じく、遺族としてしっかりしなくてはと心の糸をピンと張っていた。葬儀が終わり、火葬場へ向かう前に棺に花をたくさん入れた。祖父の顔のそばに花を供えた時、ピンと張った糸がぷつりと切れた。涙が止まらなかった。嗚咽に近い声だった。みんな泣いていた。静かにハンカチで目元を押さえる人、大声をあげて泣く人。祖父がその人たちに与えてきた優しさが涙や声となって溢れてきているようだった。花を全て供え終わった後、葬儀社の方があるものを持ってきた。祖父が大好きだった、近所のパン屋さんの豆パンだった。家族みんな崩れ落ちそうだった。わざわざ隣の市の小さなパン屋さんに朝早くから向かってパンを買ってきてくれたと思うと、この人はどうしてここまでしてくれるのだろうと、感謝でいっぱいになった。それがお仕事と言ってしまえばそこまでだけれど、亡くなった方と遺族にここまで寄り添えるなんて、とても素晴らしいお仕事だと思った。向こうでたくさん食べてね、と豆パンを供え、棺は閉じられた。祖父は祖母と母と一緒に霊柩車に乗り、火葬場へと向かった。

私は叔母の旦那さんの運転で火葬場へと向かった。斎場に着くと、霊柩車とバスはすでに着いていて、皆は部屋の真ん中にいる祖父を囲んでいた。この時の焼香が本当に最後のお別れだった。涙を堪えて一言、ありがとうと言って祖父の頬に触れた。祖父は火葬炉に運ばれていった。扉が閉まる瞬間、心臓に鉛のような重いものがどろどろと流れてくるようだった。本当にあの優しい顔をもう見られないのか。

待合室では親族一同が集まり、お弁当を食べ、談笑していた。とても穏やかな時間が流れていた。大きな窓からは海が見えた。曇天だったが、波は穏やかだった。あんまり晴れない冬の北陸らしい海景色だと思って眺めていた。そうしているうちに、火葬が終わったという放送があった。

穏やかな顔で眠っていた祖父は本当に骨だけの姿になってしまっていた。これが祖父の骨か。あまり実感は湧かなかった。小さな骨壷に骨を納め、式場で最後の法要を終えてから家に戻った。祖父も、とても小さくなってしまった姿だったが、家に帰ってこられた。これで一連の葬儀が全て終わった。

それからしばらくは、香典を頂いた方々の名簿の整理や役所関係の手続き、携帯電話やカードの解約などの手続きなどに追われて悲しむ余裕はなかった。祖父は何枚もクレジットカードを持っていたので、それを把握するだけでも大変だった。死亡した人の代理で行う準確定申告は電子申告ができないことがわかり、計算だけをPCに任せ、手書きで確定申告を書いた。全てを祖父に任せていたため、何もわからないなりに調べて調べてようやく確定申告の書類を出した時は肩の荷がどさどさと音を立てるようにして落ちた気がした。悲しむ余裕は本当になかった。

いや、嘘だ。祖父の好きだったものを見て祖父を思い出し、黒い額に入って笑顔のままの祖父の前で泣き、どこにいるの、どうして何も喋ってくれないの、と大声で泣いた。その度に祖母や母に宥められて、ということを何度か繰り返した。ぽっかりと空いた穴は祖父の形をしていて、他の何かでは埋められなかった。むしろ祖父がふらりと戻ってくる気さえしていて、埋めようともしていなかったのかもしれない。

そして、今。祖父が亡くなって100日が経った。もうそんなに時間が経ってしまったのか、というのが正直なところだ。人間は亡くなってから100日まではあちらの世界には行けず、この世をふらふらしていて、100日経つとあちらに行ける、と言う話を聞いた。だから祖父は今はもう本当にこの世にはいない。祖父の形の穴が埋まったわけではないが、その穴をわざわざ塞ごうとしなくても悲しみに暮れることはなくなってきた。ここに来てようやく祖父と本当のお別れができた気がする。

こんなにも身近な人を亡くすのは初めてだった。いつかは来る別れだとわかっていたが、どうしてそんなに急いでしまったのかとも思った。ただ、人に尽くし人を思いやり、優しく強い祖父はあの世にも必要とされていたのだろう。あの世で誰かのために頑張っているのかもしれない。そして、必ず私たち家族を見守ってくれている。祖父が亡くなる前、家族みんなと交わした約束だから。家族が笑っているのを一番幸せ そうに見ていた祖父だったから、きっと向こうでも同じように笑っていて見ていてくれていると思っている。

いつかは私も祖父と同じところに行く。みんなそうだ。その時に胸を張って生きたと、楽しんだと、頑張ったと、幸せだったと言えるように生きていきたいと思う。

じいじ、たくさんの愛をありがとう。またね!

つらつらとつらいこと

大学を卒業してから約半年。 焦り、自責、病気のこと、色々なものに悩まされている。

卒業してから2ヶ月ほど経った頃にアルバイトを始めた。動き出すのに時間がかかったのと、手続き上の関係で予定より少し遅く無職を脱却した。アルバイト先は保育園。保育士の資格はないので保育補助としての雇用である。部屋やおもちゃの掃除や消毒、おむつ替え、そして子どもたちが遊んでいるのを見守るのが仕事だ。4ヶ月ほど経った今、だいぶ慣れてはきたものの、自分と保育士さんたちとの違いに悩んでいる。自分がどこまで介入していいのか、独断で判断していいものかがわからない。やれと言われたことだけやるのは気が利かないと思われそうで、かと言ってあれこれやると保育士じゃないのに勝手なことをするなと思われそうで。なんでも聞かずに決めるのは良くないだろうけど、先生方はみんな忙しそうだし、今聞いて大丈夫なのか迷うこともある。これらのことはおそらく気にしすぎなだけなんだろうけど。

よくよく考えれば去年まで保育の学校でもなんでもない大学にいて、年下の子たちの面倒を他人よりちょっとだけ多く見てきたくらいの自分と、専門の学校に行って資格を取ったり、長年保育園で働いてきたりしている保育士やパートの先生方で出来ることが違うのは当たり前のことである。だからしょうがないと言えばしょうがないのだけど、心が沈んでいる時だとどうしてもそう思えないことがあるのは事実だ。

そして、卒業してから新しい病院に通い始めた。そこで双極性障害II型の疑いがあると診断された。実際気分の波は激しく、うつ状態になることは確かに何度かあった。ただ、オールで飲んでもそんなに疲れないし遠征もびゅんびゅん行きまくってたしどんなことも即決でお金のことは後から心配すればいいか!の精神で過ごしていた時期もあったけどそれが躁(軽躁)だったのかはわからない。また、入学当初は誘われるがままアメフト部の勧誘に行ってはしゃいだりいつもとは比べ物にならないくらい社交的になったり(初対面の人と友達の家で泊まったりとか)してたしそれは躁だったのかなとかも思ったり。思い当たる節があるようなないような、といった感じだ。

今現在双極性障害の薬も服用しているが、初めに飲んだエビリファイというやつは可もなく不可もなくといった感じだ。少し気分の波はあった感じがするが、比較的落ち着いてたと思う。仕事にも問題なく行けていた。次に飲んだラツーダは、1週間くらいして食欲が落ちていつも1日2食か3食は食べるのに1食プラスウィダーぐらいしか取れなくなって、それすらもつらくて、お腹は空いてるはずのに何も食べたくない状態になった。あと、強烈な脱力感、だるさに襲われた。この症状のせいでお風呂に入るのがとてもつらくなった。いつもだったらお風呂上がりってさっぱりして一瞬目が覚めるから、ストレッチしたり洗濯物畳んだりスキンケアに時間かけたりできるんだけど、もうそれがままならない、すぐにでも布団に駆け込みたくて最低限のスキンケアとドライヤーして、コンタクト外したら即布団に入って5分もたたないうちに眠りにつく。その割に3時間くらいで中途覚醒したり、強烈な夢を見て寝てるのに疲れてたり、睡眠にも障害が現れ始めた。他にも孤独な気持ちになって悲しくなったり、イライラしたり、焦燥感が出てきたり、息が詰まる感覚がしたりと、なんかいろいろ重なって完全にダメダメな状態になってしまった。もしかしたら薬のせいかもとこの薬の服用をやめたら食欲低下とだるさはかなり改善された。次の通院では絶対にこの薬を中止にしてもらおう…。

そんなこんなで日々なんとか生きるだけ。生きている、それだけでよいと思えればもう少し楽だろうが、あんまり安定はしてないのでまだ自責は残る。それでも生きなければ何も成し得ないから、つらつら自分の身の上をこう吐き出しながら何とかやっと、生きている。

休経ての卒

6年在籍した大学をようやく卒業した。

2年次に上がって2ヶ月ほど経った頃、自分が学びたくて選んだはずの専門分野の勉強に躓いたことをきっかけに大学に行けなくなってしまった。自分以外の同級生はみんな学んだ内容をしっかり理解していて、完璧にできているのに自分は何も理解できていない、そんな風に思うようになってしまい、つらかった。1年のときに仲良くしていた子たちはみんな違う分野になってしまい、なかなか会えなくなった。やがて、大学のことを考えるだけで具合が悪くなり、学部棟に入ることすらできなくなってしまった。先生からは休学を勧められた。そして、自分以外の人がみんな完璧にできている、自分は完璧にできなければならないと考えてはならない、「頑張らないことを頑張って」と言われた。

その年の後期から休学した。休学期間中はやりたいことをやって心がいろいろなことを楽しめるようにすることを一つの目的としていた。ひたすらにバイトして、今まで一人では怖いからと避けてきたライブに行くようになった。生でパフォーマンスを鑑賞することの素晴らしさを知った。年齢も性別も住んでいるところも様々な、おそらく普通に大学生活を送っていたら出会わなかったであろう人たちと出会った。何度も一人で交通手段や宿の予約を取り、一人でバスや電車に乗って会場まで向かった。これはわたしにとって「なんか強くなったな」と思える出来事だった。経験値を稼いだ気がしていた。

半年の休学を終えてからも、順調とはいえない学生生活だった。少しでも周りと同じようにしなければという気持ちが消えずに無理をして、また大学に行けなくなって、2度目の休学をした。自分のペースを掴みかけてそこそこ順調だと思っていたところに扁桃炎を繰り返すようになり、手術を受けることになった。まさか大学生活で初めて全身麻酔を経験することになるとは思っていなかった。

そんなことがありながらも、少しずつ自分のできる範囲を覚えていった。精神科に通うようになり、話を聞いてもらいつつ、お薬を出してもらって不安やパニックに陥ったときの対処を会得していった。自分のやれる範囲で、地道に少しずつ授業を取り、単位を取得し、ゼミの先生の手厚いサポートのお陰でプレ卒論、卒論を無事に書き上げた。そうして今年3月、無事に卒業判定を頂いた。

6年間は長かった。周りが卒業して、就職内定をもらって、次のステップに進んでいく中、自分のペースを貫くことに焦りを感じることもあった。むしろ、焦りを感じてばかりだった。でも焦ったって自分のキャパはたかが知れているわけで、周りに合わせてもパンクしてまた動けなくなってしまうだけだとだんだんわかってきた。自分のことを知り、やること、やれることにとにかく集中して、ひたすらに、がむしゃらに、なんとか走り抜けてきた。そんな大学生活だった。

袴を着るつもりはなかった。しかし、「袴を着ることなんて大学の卒業式を逃したらこの先ないよ」という家族の言葉を受け、袴を着ることにした。ハレの日の装いは身も心もしゃっきりとしたし、なによりも家族にその姿を見せられたのが本当によかったと思っている。

家族、友人、大学の先生、精神科の先生、いろんな人に支えられながら、ようやく辿り着いた「卒業」。決して順風満帆とは言えない、後悔がないとも言い切れない、けれども自分がひたむきに生きてきた6年間を、一生の糧としてこれからも進んでゆきたい。

ほんをよむ

ご飯が炊けるまでの時間。冷凍しておいた鮭を解凍し、焼けるまでの時間。ここ1週間ほどちまちまとやっていた授業の発表準備もひと段落して、スマートフォンを弄るのにも、長時間のパソコンでの作業からブルーライトを受け付けなくなっていた。洗い物もないし、何もすることがない手持ち無沙汰な時間。

ふと、本読もう、と思った。 面白そう、読もうと思って買った本が、忙しさを言い訳に溜まっていく。論文を読んだりレポートを書いたりで文字に向き合うことに疲れてきていたから、ベッド脇や本棚でインテリアと化している本たちに目を向ける気にもならなかったのだが。 本当に唐突に、そう思ったのである。

壁を背もたれに、台所の前の廊下に座り込み本を読み耽る 。時間が吸い込まれる。作品の世界を頭に広げながら読んでいく。心が吸い込まれる。もっと読みたいと思ったが、鮭は焼けてご飯も炊けている。夕食の時間だ。

眠る前にも本を開く。心地よい眠気がきている。それでも本の中の世界は透明な糸みたいに脳の中にするすると入ってくる。いい時間だ。続きをもっと読みたいが、眠いし読み切るのが寂しい。そう思い、栞を挟んで本を閉じた。

ああ、本を読むのってこういうことだったな、そうだった。

扁桃腺を摘出しました〜術後の経過〜

桜の季節も終わりが見え始め、新緑が顔を出すこの季節、久しぶりに扁桃腺摘出手術について振り返ってみようと思いブログを書いています。多分これで扁桃腺摘出手術についてのブログは最後になるかと思います。

退院直後

術後1週間ちょうどで退院。久々の自宅にほっとしたのも束の間、腰〜脚のあたりにひどい発疹が出ているのに気付きます。母(看護師)に見てもらったところ、これは薬疹、つまり薬に対するアレルギー反応っぽいとのこと。その時飲んでいたのは痛み止めだけだったので、病院に電話したところ、服用を中止するように言われました。その後他の痛み止めを服用したところ、徐々に発疹はおさまっていきました。(追記:この話、以前のブログ→https://hakuam120.hatenablog.jp/entry/2020/09/15/125333でも書いてますね…内容が重複してすみません、、) それにしても術後ずっと同じ痛み止めを飲んでいたのになぜ気づかなかったのか…。おそらく喉の痛みに気を取られていたのと、背後で自分の目に入る場所に発疹が出てなかったからでしょう。確かに入院中から「なんかお尻の辺りがかゆいな〜」とは思っていたんですが、乾燥か何かだと思って放置していました。割と薬のアレルギーがあるほうなので、初めて飲む薬には副作用に注意しようと思わされた出来事でした。

退院して数日は、ご飯はおかゆや雑炊にしてもらっていました。おかずはよほど辛味や酸味のあるもの、硬いものでなければ普段の食事と一緒でした。それから、おかゆから普通のご飯へ、だんだん滲みなくなったから酢の物やフルーツを食べ…といった具合で徐々に普通の食事に戻し、1ヶ月も経つ頃には手術したことも忘れるくらいなんでも食べられるようになっていました。

退院1週間後に耳鼻咽喉科を受診し、術後の経過も良好であるということで扁桃腺摘出に関する病院通いも一区切りとなりました。

術後初めての冬を過ごして

手術から数ヶ月後、寒さも厳しくなり空気も乾燥して風邪を引きやすい冬がやってきました。前年は12月から2月にかけて3度扁桃炎になっているので、手術後はこれがどんな風に変わるのか楽しみにしていました。

結果として、一度胃腸炎になった以外は全く風邪も引かず、元気に過ごせました!疲れや乾燥で朝喉がガサガサする…と思った時も、うがい薬を入れてうがいを数回すれば次の日にはすっきり治っていました。今まではちょっと喉がガサガサする…と思ったら次の日には熱が出ていたのに。ここまで変わるものかと感動しました。扁桃腺を取ったら逆に風邪を引きやすくなったと言う体験談もいくつか耳にしたことがあったので不安な部分もあったのですが、わたしの場合は全くそんなことはありませんでした。

まとめ

最後に、扁桃腺摘出手術を受けて自分の体調がどう変わったかについてまとめます。

結論から言うと、高熱を出すことや喉の痛みに苦しむことがほぼなくなり、大幅に体調がよくなりました。もちろん、術後しばらくは喉の痛みがつらかったり食べられるものが制限されたりと制約がありましたが、それを乗り越えてからの身体の楽さと天秤にかけると全く大したことなかったなと感じます。 ただ、わたしの場合は扁桃腺を繰り返すという理由で手術をしたので、扁桃腺自体は大きくなく傷も比較的すぐに治癒したのですが、扁桃腺肥大等の理由で摘出する場合はこの限りでは無いと思います。全身麻酔をかけてまで行う手術なので、リスクもそれなりにあります。

もしこのブログを見てくださっている人で扁桃腺の摘出手術を考えている人がいましたら、まずは信頼できるお医者さんに相談してみることをお勧めします。扁桃炎を繰り返す頻度や扁桃腺の大きさ、日常生活に支障をきたしている程度によって手術をしたほうがいいか、しなくても問題ないかが決まってくると思います。

コロナ禍の今、手術を受けるという選択をするのも、そういった理由で病院を受診するのもなかなかはばかられることかと思います。このブログが、繰り返す扁桃炎に悩む方や手術を決めた方にとって、ひとつの情報として役立てば幸いです。拙い文章でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました!

扁桃腺を摘出しました 〜入院生活を振り返って〜

こんにちは。このブログを編集しようと思って下書きを開いたら「涼しくなって秋めいてきましたね」とか書いてあってビビりました。放置しすぎ…。扁桃腺よわよわ人間にとって一番危険な時期、冬が来たわけですが、扁桃腺摘出後の経過については冬を越すまで様子を見てみようと思います。

というわけで、今回は少し入院生活を振り返ってみようと思います。これから入院する予定がある方、扁桃腺の摘出手術を検討している方にとって少しでも参考になれば嬉しいです。

手術日について

わたしが手術を行ったのは9月のはじめでした。夏休みで、しばらく実家に滞在できて、集中講義とかぶらない日…という風に決めていきましたが、これはベストな選択だったなと思います。それは、高額医療費の制度上の理由からです。手術で長期の入院が必要になるなど、医療費が高額になった場合、医療費の払い戻しや限度額認定が受けられるのですが、この高額医療費の計算はひと月毎。月またぎになると、入院の期間が2つの月に分かれてしまって高額医療費控除を受けられない可能性が出てくるのです(また説明が若干あやふやですが…大方こんな感じだと思います)。月またぎにならなければ、口蓋扁桃摘出術はほぼ確実に高額医療費控除の対象になります。手術日はなるべく退院日まで月をまたがないような日に設定するのが良いと思います。

食事について

術後しばらくは、とにかく食べられるものが限られてきます。酸味、辛味、塩気の強いもの、硬いもの、粘度が高くて喉に引っかかるものは傷口にしみたり、かさぶたが剥がれて出血する可能性があるので食べられません。そして、当然ですが喉がとても痛いです。痛み止めはある程度は効きますが、はっきり言って食後の痛みにはあまり効きません…。また、手術のときに使う開口器の影響で口内炎が大量にでき、これまた痛かったです。とはいえ、何も食べないわけにはいかないので、のどごしが良くて飲み込みやすい、刺激の少ないものを食べるのが一番だと思いました。そこで、術後食べやすかったものと、食べにくかったor食べられなかったものを下記に示します。

◎食べやすかったもの

おかゆ(病院食で一番食べやすかった。少々固めのおかずが出ても、おかゆと一緒によく噛めば飲み込めた。)

・カラメルソースのないプリン(喉に引っかかることなくストレスフリーで食べられた。カラメルソースは喉の傷や口内炎にしみるからないほうがよかった。)

白身魚の煮付けや焼き魚(お肉類より柔らかくほぐれてくれて食べやすいし、なにより美味しかった。ちゃんと食事してる!って感じがした。)

✖️食べにくかったもの

・バナナ(入院中毎食のように出てきたけど、これは食べられなかった。口内炎にしみるし、粘度があるので喉に引っかかって痛くてたまらない…。水分と一緒にちまちま食べたりしてたけど、我慢できずに残した日も多かった。)

・芋類(術後1日目の晩ご飯にさつまいものふかしたやつ?が出てきたけどぱっさぱさで喉に引っかかって食べれたもんじゃなかった。味噌汁とかに入ってる分にはまだいいけど、そのままだとかなり食べづらい。)

・プリンのカラメルソース(前述の通り、カラメルは喉の傷と口内炎にしみる。)

・ほうれん草のお浸し(ちょっとずつ、だいぶよく噛まないと喉に引っかかる。ウシのように草を食み続けていた。)

病院食は、術後すぐは赤ちゃんの離乳食レベルの柔らかさだったりほぼ液体に近いものしか出てきませんが、日を追う毎に普通の食事に戻っていきます。しかし、それに伴って食べにくいものも出てくると思います。そんなときはまず、おかゆと一緒に食べることをおすすめします。おかゆはかなりたくさん水分を含んでいるので、一緒に食べれば水分量の少ないパサパサしたものでもある程度は飲み込めるようになります。それでもダメなときは潔く残しましょう。看護師さんや主治医の先生に食事内容について相談してみるのも良いかもしれないですね。なお、もし扁桃腺摘出の手術をした人のお見舞いに行く時はメイトーのなめらかプリンを差し入れに持っていくと喜ばれるかもしれません(わたしだったらすごく嬉しいです)。

入院生活について

入院中一番思ったのが、「看護師さんはすごい」ということ。毎日何度かバイタルチェック(体温や血圧の測定)に来られるのですが、激務で疲れているはずなのにいつも優しくて気さくで、困ったことがあったらすぐに相談に乗ってくれます。過呼吸を起こしてしまった時も、落ち着くまでずっと隣にいてくれました(他の患者さんもいるのに申し訳なかったです…)。コロナの影響で面会が禁止されているというのもあり、身近でいろいろ気にかけてくれる看護師さんの優しさが本当に身に染みました。本当にお世話になりました…!

あと、入院中に持っていったものに関して思ったことを書きます。

まず、入院中の暇つぶしに関して。ポケットWi-Fiはとても役に立ちました。罪悪感なくYouTubeで動画を見られたし、速度も問題なかったです。本は張り切って何冊も持っていくほどではないかなと。痛いしあんまり文字を読む気になれなかったです。

食事や衛生面に関して。食事用に箸とスプーンのセットを持っていったのですが、術後は柔らかい食事が多いのでスプーンが大活躍しました。また、コロナの影響もありますが、喉の乾燥を防ぐために常時マスクが必須でした。多めに持っていくと安心だと思います。痰や唾を吐き出すことが多いのでティッシュも二箱くらい持っていくといいかもしれないです。また、うがい用と飲み物用でコップは2つ持っていくのをおすすめします(これは他の理由で入院する時も同様かもしれませんが)。スキンケアは、泡で出てくる洗顔料やオールインワンジェルみたいになるべく楽なものを持っていったほうがいいと思います。術後なので当然ですが、あんまり凝ったスキンケアをしてる余裕はありません。

その他、わたしはいつも夜寝る際にお気に入りのタオルケットを持って寝ているのですが、これが思わぬ活躍をしました。枕の高さが合わないと思ったときに畳んで頭の下にひいたり、少し肌寒い時に上から羽織ったり。いつも寝るときに使っているものなので痛みでナイーブになりがちな入院時に安心感をもたらしてくれます(これは個人差あると思いますが…)。ただ、枕の高さ調節や体温調節にブランケットやタオルケットを持っていくとなかなか役に立つと思います。

入院を振り返って

さて、色々と入院生活について振り返ってみましたが、基本的に病院はとても快適でした。食事はしっかり3食出てくるし、お風呂もちゃんとあるし、設備もきれいで使いやすかったし、看護師さんは優しいし…。本当にいい病院に入院できて良かったと思っています。また、医療従事者の方々の凄さを改めて感じました。術後はしんどい期間も長くて大変ですが、お医者さんや看護師さんの手厚いサポートがあって安心して療養できました。コロナ禍で医療の現場は非常に緊迫した状態ですが、皆さんとても親切に優しく対応してくださいました。医療の現場に携わる方々に心から感謝です。今回はここまで。冬を越してから、術後の経過について書こうと思います。